発展目覚ましいインドで見た支援先の今
9月15日~24日、インド・ダージリンの支援先である紅茶農園、農村部、町の中の6校をESAユースメンバーの大学生3名とスタッフ2名の合わせて5人で訪問した。発展めざましいインドの中で、まだまだ生活環境が厳しい紅茶農園と農村部の現実の中で、元気いっぱいの子どもたちの笑顔にたくさん触れることのできた訪問となった。(スタッフ 出口千恵子)
ダージリンの人々と懐かしい風景
子どもは、親も生まれてくる場所も民族や身分も選べない。最近ネットで見られる「◯◯ガチャ」という言葉が何度となく頭をよぎり、こんな言葉嫌いだと思いながらも、ダージリンの苦境の中に生きるたくさんの子どもたちの状況を目にするにつれ、心に鋭く突き刺さった。親に捨てられ祖母に育てられている家庭の子、身体的・性的な暴力の被害に遭っている子、家族の愛情を受けているものの差別によって貧困から抜け出せない子、幼い頃に親を亡くし苦しい生活を強いられている子・・・。ダージリンは人種の坩堝で、ネパールからの山岳民族、チベット民族の他、ブータン、他のインド地域からの移住者も多く、それに伴い宗教や言葉も多様だ。加えてカーストが未だに色濃く残り、人々の生活を複雑に、そして人生を翻弄している。同じ空の下、なぜこの子たちは生まれながらにしてこのような状況下にいなければならないのか、帰国してからもずっとこの不条理が頭から離れることなく胸を傷めている。
約30年ぶりとなったダージリン訪問。急激に発展を遂げるインドでの支援先の変化と実情を視察することが1つの目的で訪問したのだが、車窓からの風景は何も変わっていなかった。快適なデリー空港からバグドグラ空港に到着すると、扇風機だけがカラカラ回り、独特の匂いとムワっと蒸し暑い空気が身体を包み、まるで時間が逆戻りしたような懐かしさを覚えた。ニュースで見る豊かになったインドは?と思わずにはいられない現実をこの後の滞在で目にすることになる。
変わったこと・変わらないこと
とはいえ変わったこともあり、電気はダージリン周辺の村落部にまで届き、町では使用量に制限はあるがいつでもお湯も使えるようになった。そして何より大きな変化はネット環境が整ったことだ。スマホさえあれば外の情報がいつでも入手可能になったのは革命的なことで、注文すれば人里離れた村でもAmazonの荷物が届く。ただし、これはその環境の整った人に限る、という条件つきだ。わずかだがアウトカーストやマイノリティのための国の援助や奨学金も増えたようだ。ESAの支援先の茶園や農村部の家庭はというと、日中酒浸りの男たちが村にたむろしなくなったのは進歩だというものの、未だに薪にかまど、薄暗い裸電球1つで、窓にはガラスもない、水汲み場から水を運ぶ生活。(帰国後、紅茶農園の村人と先生たちの訴えにより来年には水道が通る予定との朗報が届いた!)
彼らの抱える問題
「家庭崩壊」、私たちの支援先のどの学校でも上がった問題で、5割以上の子どもたちが犠牲となり寂しい思いをしている。インドで8年生まで無償の義務教育が始まったのはほんの十数年前のことなので、親たちの多くがまだ教育を受けていない世代だということも一つの要因だろう。先生たちも「あと10年、20年で環境は大きく変わるだろう。我々の学校でしっかりと教育を受けた人たちが増え、その人たちが家族を持つようになっていけば、村は大きく変わっていく。」と口々に言う。今が過渡期で、この問題も減少していくに違いない。
子どもたちへの家庭訪問より
Sちゃん(12歳)は、両親、妹、弟の5人家族で、とてもフレンドリーでチャーミングな女の子。身体の痣から、親からの虐待を受けていることを知った先生たちがセントメリー校の寮に引き取りました。母親は紅茶農園で茶摘みの仕事をし、父親は茶園で日雇い労働をしています。先の見えない貧困生活から両親はアルコールに依存し、酔うと子どもに暴力をふるってしまいます。Sちゃんは繰り返し寮を飛び出し行方が分からなくなるので、先生たちの心配は尽きません。家の中は日中でも真っ暗で、劣悪な環境ながらも物が少なく、整然としていました。
セントメリー校を卒業し、公的な奨学金を受けられることになり、大学でソーシャルサイエンスを専攻しているPさんは、ダージリンにあるセントジョセフ・カレッジに毎日片道1時間以上、凸凹道を乗り合いジープ(片道250円)に揺られ通っています。父親を幼い頃に亡くし、茶園で働いていた母親も昨年病気のため他界し、まだ寂しさが癒えません。仕事をしている姉の支えの元、二人で暮らしています。同じ紅茶農園の家庭でも大きな違いがあり、Pさんの家は庭にきれいな花が植えられ、家の中もとても明るく清潔感があり、一間の部屋をリビングと寝る場所に分けて居心地よい空間にしています。
ダージリン訪問記・その2に続く